聖書の中にこんな言葉がある。創世記
「神は7日で世界を創った。6日目に神はご自身の姿に似せて人を創られた。神は人の出来具合に大層満足をされて、一日休んで、世界の創造を終えた。」
神が、自分に似せて作って、満足して一日休んでしまうくらい完璧作られた存在が我々「人」だ。
そう考えると、僕ら一人一人は生まれた時点で完璧な存在だったわけだ。
今が完璧と感じられない理由は、余計なことをしているからだと、実感している。
一言で言うならばいわゆる、「執着が強すぎる」こと。
「こうでなけばいけない」「こうあるべきだ」の連鎖。これらの言葉を無意識に自身にかけ続けるせいで、未来や過去の時間軸の自分に咒い(まじない)をかけている。
咒い(まじない)が負の方向で使われれば、それは「呪い」となるし
正の方向で使われれば「祈祷」や「祝福」となる。
この咒いの結果が「からだ」にあらわれてくる。
それが、緊張であることもあるし、痛みや病気であることもある。
不意の事故や日常で起きること全てが咒い(まじない)の結果。
だからこそ日々、自身にかけた咒い(まじない)の結果を観察して、その意図を汲んでみよう。
呪いであれば少しずつ解呪(かいじゅ)すれば良いし、「祈祷」や「祝福」になっているのであればそれを続けていけば良い。
解呪(かいじゅ)すること。これが自然体に近づくために必要なことなのかも知れない。
解呪(かいじゅ)するためにやること
あらゆる出来事の意図を探ること。
因果…という言葉をきいたことはあるだろうか?
原”因”と結”果”の関係性のことであり、全ての出来事はこれから成り立っているとされている。
からだの痛みや不具合、目の前で起きる全ての出来事には必ず「因」が絡んでいる。
みえている痛みや不具合、出来事は全て「果」であり結果でしかない。
だから望ましくない因果の流れに居る自覚があるのであれば、「因」を見直していく必要がある。
例)
「因」→「果」
「負の咒い(呪い)」→「腰が痛い」
「負の咒い(呪い)」→「不幸に巻き込まれる」
やるべきことは、どんな「負の咒い(呪い)」を自分にかけているのだろうか?
という質問をすること。
「因」→「果」
「本当は仕事に行きたくなかった」→「腰が痛くて仕事ができなくなる」
「本当は今の環境から抜け出したかった」→「不幸に巻き込まれることで、大きな環境の変化を起こす」
↑例を挙げるとこんな感じになる。
※もちろん、必ずしもこれではなく個々人のケースで大きく異なる。
まずはここに気づいた上で、因果を整えること。
因果の因を、自らの望む方向へ変えていくことで、目に見える現実「果」が変わる。
あとはこれを地道に繰り返していくのみだ。
すぐに変わる因果もあれば、なかなかに時間のかかる因果もある。
とはいえ、今がのぞむ世界線と違うのであれば、試す他ないと僕は考えている。
ここで説明している因果も、自我としての「わたし」が招いたものであれば、そうでない因果もある。
後者の因果については、また別の機会に書き起こしていこうと思う。
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