整體への個人的解釈
※整體=整体
整體とは、文字通り
體カラダを整えることだ。
ここでいうカラダは「体」のことではなく「體」のこと。
前者のカラダは劣等とか、劣っている劣悪な。なんて意味を含んでいる。
戦後に旧漢字が今の漢字に入れ替えられるまでは「体育」は「體育」だったし「体操」は「體操」だった。
たかだか、文字が変わっただけなのだが、名付けというのは、人々が思っている以上に力がある。
つまり、「整体」という認識で想起する状態と、「整體」で認識した時の想起されるモノは全くの別物になる。
入り口の認識が異なると、施術者と受け手のミスマッチが起こる。
ゆえに「整体」ではなく「整體」の表記を設定している。
本題
整體とはいったい、何なのだろうか。
漢字の意味を個別で示すと…
「整」ただしくそろえる、ととのえる
「骨」物事の核心。そのものを成り立たしている中心。
「豊」の本質的な意味では、十分に備わっていて不足のないことを示す。
つまり、
整體 = 核心が不足のないことを示せるように、そろえること。
これが整體の本義になる。
ここでいう「核心」がこの場合は生命そのものを指し示している。
つまり、カラダだけ整える「整体」との違いはココになる。
もちろん、カラダだけ整えることのメリットも多々ある。
特に、誰がやっても同じ成果を出す必要がある、ビジネスにおけるサービスの一種として扱われた「整体」を扱う場合にはむしろ、こちらの方が都合が良い。
動きの「型」と「知識」を最低限揃えて、場数をこなすことで比較的短期間でサービスの「質」を担保できる。
これが「整體」と比較した際の「整体」のメリットだと思う。
かたや「整體」はどうだろう。
言語化するのがとても難しい。
例えるのならば…
客観的姿勢の変化や、指標の改善に基づいた変化を与えることが「整体」として
受け手が主観的に「しっくる感」を実感した状態を目指すのが「整體」と言えるかも知れない。
大多数の人間の平均値へ沿わせて安心を提供するのが「整体」で
個々人の歴史においての基準値へ戻すのが「整體」。
科学的なのが「整体」
哲学的なのが「整體」
という伝え方でも良いのかも知れない。
カラダからアプローチして実感を得るのが「整体」
感覚へアプローチして実感を得るのが「整體」。
棲み分けが大切だと思うのだ。
カラダを触ってもらうことそのものが目的ならば「整体」だと思うし
しっくりこない感覚をフィットさせるのが目的ならば「整體」。
互いが一生懸命に取り組んでいるのに、入り口のミスマッチで互いに残念な気持ちになるやり取りは、あまり望ましくない。
辞書的な漢字の意味なんかわからなくても、文字から伝わるパッションというのは確実に在る。
互いのパッションで拡がる交流は圧倒的な幸福だ。
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